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お奨めの一冊:中国共産党之観察(日本語版)

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戦後台湾自由主義の大家ともいえる著者の殷海光氏(台湾大学哲学教授)がまだ中国大陸に留まっていた国共内戦末期の1948年に中国上海で出版した「中国共産党之観察」の日本語版電子書籍(2023年7月出版)をお奨めいたします。私は上海在住の翻訳者です。殷海光氏が辿り着いた結論は、端的に言うと、反共なのでありますが、そこに至る観察、分析には、現代の私達にとっても、大いに参考となるものがあります。 時代背景について述べると、中国国民党蒋介石政権は台湾への撤退前の1947年に台湾で二二八事件を引き起こし、台湾への撤退後も、中国大陸を失った原因は共産主義の弾圧に手ぬるかったと考えたということなのでしょうが、朝鮮戦争の勃発により、米国による台湾支援が始まると、もう安心したということなのか、独裁をますます強めていきます。殷海光氏は、1948年当時は、日中戦争を勝利に導いた蒋介石委員長を民族の救世主と見なしていましたが、その後、徐々に蒋介石批判に転じ、蒋介石による違法な総統三連投に反対して野党である中国民主党の結党を準備していた雷震氏等を言論によって応援したところ、雷震氏等は逮捕投獄され、殷海光氏本人は政治活動に携わってはおらず、投獄はされなかったものの、言論活動を封じられたり、台湾大学の教職の現場を追われたり、米国への出国を拒否されたりする中で、1969年に若くして病死してしまいます。 殷海光氏は、専門である論理学のほか、中国文化論の分野でも著書があり、嘗ての台湾では禁書になって、香港で出版されたりしたものもありました。現在、多くの関連図書が中国大陸でも出版されています。ちなみに、本翻訳書の原書である1948年上海初版とその後の台湾版は、中国大陸の一部の公共図書館にも蔵書として納められており、私も閲覧させてもらったことがございます。内容的には、中国共産党政権にとって、確かにセンシティブであるとはいえ、新中国の建国前に出版されたものであり、それは1949年の新中国建国という事実によって、ある意味、否定されていて、反面教材にもなり、さらに、殷海光氏は後に、中国共産党の主敵であった蒋介石批判に転じて抑圧され、不遇の中で亡くなったということは、覚醒した悲劇の反蒋介石闘士で、敵の敵は味方、中国文化復興にも功績があったので台湾独立派ではない統一派であると見なせるといったような論理が働いて、ぎ

短歌:殷海光忌に(2023年9月16日)/日文短歌:殷海光忌日(2023年9月16日)

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非常期に 堅い信念 守り抜き 言論以って 天下揺るがす 【短歌:殷海光忌に(2022年9月16日)】 独裁に 怯むことなき 自由の士 大河東流 阻めぬ民主 国共内戦末期に台湾に逃れた後、民主化を進めようとしない中国国民党政権と言論を以って闘い、その後、抑圧され、若くして亡くなることになる殷海光先生が大陸時代に上海で出版した「中国共産党之観察」(独立出版社、1948年)を翻訳し、2023年7月に日本語版電子書籍として出版いたしました。 https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0CBT5D24R/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i0 殷海光先生在國共內戰末期遷往台灣後,透過言論方式與不願推進民主化的中國國民黨政權進行鬥爭,後來受到壓迫,英年早逝。殷海光先生還在大陸時期的上海出版的《中國共產黨之觀察》(獨立出版社、1948年)一書的日文版電子書已於2023年7月問世。

中国現地採用外国籍労働者の上海社会保険料追納労働仲裁勝訴から10年

事の始まりは、2009年に上海当局が外国籍でも上海従業員社会保険に加入可能という通達を発したのを機に会社側と交渉すると、雇用契約の解除を強要されたことであった。二社目と三社目では加入できたものの、三社目は折悪く尖閣反日運動の時期に重なり、雇用のニーズが激減する中、やむを得ず、人材会社がせがむ実名と連絡先を伏せた上での履歴書のばら撒きに途中から応じると、忍び寄って来たのはブラック企業であり、私の就労許可申請を阻もうと企み、それを振り切って取得すると、試用期間中に雇用契約を解除されたのであった。早くから予約していた台湾旅行から上海に戻ると、とある日本語人材が私の同意なく個人情報を別の人材会社に流し、面接を強要されて、この四社目との面接に赴いたが、面接では社会保険への加入に同意したにも関わらず、実際には加入拒否であり、最終的に雇用契約を解除され、遂に労働仲裁を申し立て、2013年9月9日付けの仲裁判断で勝訴した。その後も不服申し立てを受けたが、棄却となって仲裁判断が確定した。しかし、強制執行段階で、被告企業の登記地を管轄する裁判所は執行せず、労働当局に問題を反映するようにとのことであったため、今度は被告企業の所在地を管轄する裁判所に再度強制執行を申請するとともに、労働当局へも通報すると、被告企業はそもそも違法に社会保険登記を行っていなかったことが判明。また、中国籍従業員は全員が派遣社員なのであった。その後、2014年になって漸く社会保険料の追納に成功した。ただ、医療保険のシステムは新たな企業に雇用されて保険料の納付を再開しないと、過去の追納情報を確認できないという仕様であったため、追納を完全に確認できたのは、後に自分で会社を設立して自分のために保険料の納付を開始してからのこととなった。 労働仲裁では社会保険料の追納と雇用契約の継続とを別の案件として分けて申し立てる必要があり、2013年9月9日付けのもう一つの仲裁判断で、雇用契約の継続と仲裁期間中の給与の支払いという請求が認められたが、労働裁判一審判決では判決日前に就労許可の期限が到来して延長されていないため、もはや契約を続行できない状態にあるとか、口頭弁論時に裁判官の誘導により、請求内容を雇用契約の継続から、違法解雇賠償金の支払いへと変更することに私が同意したという判断がなされた。二審では口頭弁論期日ギリギリまでしかビザ

殷海光先生の故郷:湖北黄岡団風県回龍山鎮殷家楼/殷海光先生故里:湖北黃岡團風縣回龍山鎮殷家樓

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殷海光先生編著「中国共産党之観察」(1948年出版)の日本語版電子書籍は弊社より2023年7月に出版いたしましたが、翻訳完成を前にした2023年4月、殷海光先生の地元である湖北省黄岡市団風県を訪れてみました。 朝、長江を挟んで黄岡の対岸にある鄂州市内の宿泊施設を出発、バスに乗って鄂黄長江大橋を渡り、さらに、団風県行きのバスに乗り換え、前日の乗車地点の手前数kmのバス停にて下車しました。バス停付近の交差点から北西の方角に幹線道路を歩いて行くと、地元出身の烈士を祀った墓園があったりしました。さらに進んで、高速道路を越えると、殷家楼に到着しました。溜池の端に設置されている注意書きの看板を見てみると、回龍山鎮江山村という記載があるので、殷家楼は江山村に属する集落といったところなのでしょう。集落を一周してから、幹線道路をさらに進むと、鴿子山村にやって来ました。手元にある参考文献によれば、殷海光先生は子どもの頃に薪を採集しに行って付近の山の崖から転落して軽い障害が残ったとのことであるから(汪幸福「殷海光传」湖北人民出版社、2000年、7ページ)、削られた山の斜面の写真を多めに撮影してみました。殷家楼を何度か巡ってみて、気付いたことは、やはり墓石に刻まれている方々の苗字が殷姓であることです。殷家楼と回龍山鎮は殷子衡、殷鑒等、李四光、林彪、林育南、林育英等といった名士を輩出した土地柄です。殷海光先生は幼くして殷家楼を離れ、そこから15km程離れた上巴河鎮に移り住み、さらに勉学のために地元を離れて以降、日中戦争、国共内戦、台湾への撤退という時代背景もあってか、帰郷する機会は少なかったようですが、今回、実際に訪れてみて、感慨深いものがあります。殷家楼の前にも長距離バスなら停車してくれますが、帰りも敢えて来た道を戻りました。天候はこれまで良かったのですが、南の空には雲が広がってきました。バスに乗って黄岡の市街地に戻り、東方広場を横切って、黄岡市博物館に行ってみると、すでに入館時間が過ぎていました。再度、バスに乗って鄂黄長江大橋を渡り、鄂州に戻ってから、古い歴史のある文星塔にやって来ました。北上して長江の河辺までやってくると、武昌門がありました。これは三国時代東呉の孫権が築いた武昌城にちなんで後の世に造られたものであるようです。昼間であれば、長江の中の小さな磯の上に建てられた観音閣を見るこ