帆布トートバッグ | 水野広徳 | アジア民主憲政シリーズ | 反戦平和 評論家 海軍大佐 愛媛 松山 | キャンバス エコ 耐久性 | 日本国内オンデマンド生産
【帆布トートバッグ | 水野広徳 | アジア民主憲政シリーズ | 反戦平和 評論家 海軍大佐 愛媛 松山 | キャンバス エコ 耐久性 | 日本国内オンデマンド生産】 水野広徳の自著作品の中に収録されている本人の肖像写真をもとに、トートバッグに仕上げてみました。 【歴史背景】 水野広徳(1875~1945年)は愛媛県出身の海軍軍人・軍事評論家です。義和団事件では上海の警備にあたり、日露戦争では旅順攻撃や日本海海戦に参加しました。1914年には、日米戦争を題材とした架空戦記『次の一戦』を匿名で発表し、結末を日本側の敗北としました。その後、第一次世界大戦中と戦争終結後の二度にわたって欧州を視察し、近代総力戦がもたらす破壊と民衆の苦難を目の当たりにして、衝撃を受け、反戦平和主義への転換の契機となりました。1918年には海軍大佐に昇進しましたが、1921年に「軍人心理」の新聞掲載をめぐって謹慎処分となると、軍との決別の道を選び、評論家として、歩み始めました。1923年の「新国防方針の解剖」においては、米国との戦争を想定した国防方針そのものを批判し、日米戦争となれば、日本は国力の差から敗北すると論じました。1924年の衆議院総選挙では、実業同志会から推され、一度は立候補を決意したものの、政界の実情に悲観し、出馬を断念しました。1927年の「日支親善と対等条約」や「支那の復興と我国民の覚悟」では、対中関係を対等な民族間の問題とするとともに、中国の復興を不可避の流れと捉え、日本の出兵を批判しました。1932年の『打開か破滅か興亡の此一戦』では、日本国内に広がる日米対立・開戦論を批判するとともに、東京大空襲を描きました。東洋経済新報経済倶楽部での講演「日米若し戦はゞ」は、1932年12月10日号の『東洋経済新報』に掲載されたようですが、タイムス出版社国際パンフレット通信部からも冊子として出版されたようであり、こちらを底本として、同年に上海で中国語版が出版されました。1938年の「戦争と民族」では、中国民衆の民族的団結・抵抗等を指摘するとともに、日本の対中政策を問い直しました。1943年以降は病気のため、療養生活を送り、1945年4月に疎開。同年10月に病死しました。 軍人として、自ら戦争を経験し、二度の欧州視察を経て、反戦平和主義へと転じ、日本社会に対して、懸命に訴え続けた水野広徳...