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世界人権闘士記念碑(碑文草案初稿)/世界人權鬥士紀念碑(碑文草案初稿)

私は日本語を母語としており、1996年より大陸普通語を第二外国語として学び始め、「人権立国」が提唱された2000年から2002年に台湾で華語を学び、その後、2008年より上海で暮らしておりまして、おかしな文法や表現等もあるかもしれませんが、今回は敢えて先に中文を作成してから、後から日本語文を作成して、さらに推敲を重ねてみました。誤りのご指摘、ご意見等、よろしくお願いいたします。   全世界古今東西の人権闘士を記念するため、本記念碑をここに建立する。新竹に嘗て一人の客家阿嬤がいた。1943年に不幸にも騙されて海南島に連れて行かれ、不法な権利侵害に遭遇した。1944年に台湾に戻り、その後、この地の近辺に転居した。長年の後、果敢にも幾度にもわたって遠く東京へ赴き、公権力と闘い、正義の回復を試みたが、不幸にして2011年に願いが叶わぬまま亡くなられた。世界的人権問題の中の一事例として、人類に訴えかけると同時に当阿嬤と他の阿嬤を記念し、そしてまた全世界の人々が果敢にも各種不正義に立ち向かうのを鼓舞するため、本記念碑をこの地に建立することにし、以って社会正義と世界平和の実現促進を期するものである。   〇年 地球市民謹立   #台湾 #新竹 #新埔 #日本軍慰安婦 #慰安婦 #日軍慰安婦 #日本 #中国 #海南島 #文化財 #文化資產 #記念碑 #紀念碑 #人権 #人權 #平和学 #和平學 #台灣   我是一名日語母語者,並非雙母語者,可能存在語法錯誤和不地道表現。望各位指出問題或提出建議等。非常感謝。   為紀念全世界古今內外的人權鬥士,將本紀念碑豎立於此。新竹曾有一位客家阿嬤,1943年不幸被騙到海南島,遭受不法侵權。1944年回台,後遷居於此地附近。多年後,多次勇敢遠赴東京,與公權力鬥爭,力圖討回公道,不幸於2011年含恨而去。作為世界級人權問題之中的一個案例,為提醒人類的同時紀念這位阿嬤和其他阿嬤,並鼓勵全球民眾勇敢面對各種不公,將本紀念碑選址於此,以期促進實現社會正義和世界和平。   某年 地球公民謹立

宜興人文之林儲安平衣冠塚、団氿風景区/宜興人文之林儲安平衣冠塚、團氿風景區

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2024年3月、前年に繋がった上海地下鉄と蘇州地下鉄を乗り継いで蘇州方面へ向かう機会があったので、ついでに、蘇州から無錫経由で宜興へ行ってみました。宜興の郊外にある共同墓地内に、地元出身の著名人が祀られている人文之林と名付けられた区画があり、そこに儲安平衣冠塚があるということなので、そちらに向かいました。 共同墓地内に入ると、上海市副市長等の要職を歴任された潘漢年の事績陳列館、衣冠塚がありました。潘漢年については、遠藤誉作品に登場したりするので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。後に、投獄されたりしましたが、文革後に名誉が回復されました。 さて、人文之林内に入ってみると、まずは、「田横五百士」等の作品を描いた画家として有名な徐悲鴻と夫人の衣冠塚がありました。 奥へ進むと、各人物の碑が並んでいて、その中に、民国時代に果敢な政権批判等を行われたリベラル派ジャーナリストで、新中国成立後は、新華書店本店副総経理、出版総署発行局副局長、民主諸党派九三学社中央委員兼宣伝部副部長、光明日報編集長等の要職を歴任された儲安平の衣冠塚がありました。儲安平については、「新編原典中国近代思想史」(岩波書店、2011年)に一部の作品が収められているようなので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。後に、反右派闘争や文革に巻き込まれ、1966年に失踪という悲劇に見舞われました。ここには、遺品等のみが納められているので、衣冠塚ということですね。 他にも、第二次世界大戦時に、勇敢にも、欧州ベルギーで反ナチスのベルギー人の救済に尽力されたという銭秀玲の記念碑等がありました。 街中に戻り、景勝地である団氿という湖の東岸を北上してみました。夕日が湖面に映り、眩しかったです。宜興長距離バスターミナルの向かい側に、徐悲鴻公園があり、公園内には徐悲鴻の像がありました。今回は時間の関係で、徐悲鴻記念館等、他の観光地は廻れなかったので、また次の機会に廻ってみたいと思います。 2024年3月,我有機會搭乘前一年連成一體的上海地鐵和蘇州地鐵前往蘇州,順便從蘇州出發經由無錫前往宜興。宜興郊外有一處公墓,其中有一片區域叫人文之林,供奉著當地名人,儲安平衣冠塚就在那裡,因此前往了該公墓。 進入公墓後,往前走,看到了潘漢年事蹟陳列館和潘漢年衣冠塚。潘漢年曾擔任過上海市副市長等重要職務。由於潘漢年出現在遠

台南日本軍「慰安婦」少女像の撤去について

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6月に雲南省から上海長興島に戻って来た後、台南市日本軍「慰安婦」少女像の関係者3名に対して、Facebookと電子メールにて、少女像移設問題の現在状況を問い合わせる内容のメッセージを送信させていただいておりましたが、回答はないままでした。日本軍「慰安婦」メモリアルデーである8月14日夜に、ネット上で関連記事を軽く検索してみた際には、少女像移設問題に触れられたものを残念ながら見落としてしまったようであり、とりあえず、所謂本土派の人権系NGO職員さんが転載した台北市婦援会主催の関連イベントに関する投稿文に対して、台南市少女像移設問題の現在状況が不明であるとの旨のコメントをさせていただいておりましたが、こちらも反応がなかったため、もしかしたら、そのまま従来の場所に設置し続けらるように関係者間で妥結済みだったりするのかな等といろいろ想像していた次第です。 ご指摘を受けて、早速9月25日に検索してみたところ、8月16日付けで、台南市慰安婦人権平等促進協会理事長童小芸氏のFacebookページ上に、もうすぐ期限が到来するので、台南市振興人文童話公園内への移設を希望するとの旨の一文が掲載されているのを確認しました(「童小芸 深根台南一起打拼」 https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=122132305520299529&id=61558985889057 )。やはり、当然ながら、台南市内を優先して希望されているようです。また、9月19日付けの「聯合報」の記事によれば、中国国民党籍台南市議会議員さんが、台南市当局に対して、財源が無いのであれば、経費は自ら調達するので、設置するための緑地の提供を求めたとのことです(聯合新聞網「南市慰安婦銅像拆了!藍議員要市府安置 黃偉哲回應了」 https://udn.com/news/story/7326/8237692 )。 私有地に設置するのであれば、ある程度スムーズに事が運ぶのでしょうが、実際のところ、台南市市長選挙も台南市市議会議員選挙も歴史的に本土派勢力が強い地盤であり、もちろん、各勢力とも、様々な考えをお持ちの方がいらっしゃるとは思いますが、世論が特に盛り上がらないのであれば、所謂統一派の求める公園という公有地への設置が実現できる可能性は、短期間内には難しいものがあろう

台北自由墓園、政治大学雷震記念館・研究センター/台北自由墓園、政治大學雷震紀念館暨雷震研究中心

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9月16日は殷海光忌にあたりますので、2024年2月に撮影した写真をもとに、殷海光先生の墓がある自由墓園に関する動画を作成してみました。 自由墓園は台北市南港区に近い南港墓園内にあり、住所からいうと、新北市深坑区(旧台北県深坑郷)になるのでしょう。南港方面から向かうこともできますが、今回は台北MRT木柵線からバスに乗り換えるルートを選びました。自由墓園内には、嘗て台湾の民主化に多大な貢献のあった雑誌「自由中国」の関係者で外省系自由派知識人である雷震夫妻、殷海光夫妻、傅正先生等に加えて、自由墓園の設置者である雷震先生の他のご家族の墓碑があるようです。 続いて、自由墓園からさほど遠くないところにある国立政治大学には雷震記念館・研究センターがあるので、訪れてみることにしました。ただ、キャンパス内に設置されている地図を見ても、場所が見当たらず、事務職員と学生を含めて合計3人に聞いてみましたが、分からないとのことであり、やむを得ず、ネットで調べてみると、別のキャンパスにある図書館内にあるようなので、一旦、正門から出て、指南キャンパス達賢図書館に向かいました。図書館の6階に上がる必要があり、個人情報を入力し、パスポートを預けて、臨時の図書館カードを受け取りました。雷震先生関連の展示品は、通路に置かれた陳列棚の上や壁に掛けて展示されており、参観は無料です。ただ、展示物の数はそれほど多くはないような気がしました。とりあえず、図書館の職員さんには、キャンパス内に設置されている地図に記載がなく、学内でも知名度は高くない模様であるという問題点を指摘しておきました。 9月16日是殷海光先生的忌日,我使用自己在2024年2月拍攝的原始相片,創作了殷海光先生之墓所在的自由墓園有關影片。 自由墓園位於台北市南港區附近的南港墓園內,從地址來說,在於新北市深坑區(原台北縣深坑鄉)。當然也可以從南港方面去,不過這次我選擇了台北捷運木柵線換乘公車的路線。自由墓園內有大陸赴台自由派知識分子雷震夫婦、殷海光夫婦、傅正先生等曾經對台灣民主化有很大貢獻的《自由中國》雜誌相關人士以及自由墓園的創設人雷震先生的其他家人的墓碑。 接著,我到訪了國立政治大學,是因為政治大學設有雷震紀念館暨雷震研究中心,而且政治大學距離自由墓園不太遠。只是,我看了一下校園內設置的地圖,結果地圖上根本找不到該紀念館

新居浜金子山神風特攻隊敷島隊員の墓等/四國島新居濱金子山神風特攻隊敷島隊員之墓等

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金子山の展望台から北側を見渡すと、眼前に広がるのは、住友グループの工場群、瀬戸内海燧灘とそこに浮かぶ島々、さらには対岸の中国山地。翻って、南側を見渡すと、中央構造線に沿って連なる急峻な四国山地石鎚山脈。南海大地震のような自然災害をもたらしたりもする造山運動ですが、これがないと、日本列島はそもそも存在しなかったかもしれませんね。また、海の色も、空の色も、遠くから眺めれば、そこそこ青く見えるのは、日本列島自体が大海に浮かぶ島嶼部だからこそでしょう。 さて、2024年パリオリンピックでは、日本代表選手による神風特攻隊関連施設発言が、中国大陸で物議を醸すといったことがございました。実は、神風特攻隊員として戦死された方の数は数千人規模であり、日本国内では、身近なところにも関連スポットがあったりするものです。江戸時代に別子銅山が開坑されて以降、住友グループ発祥の地、企業城下町として発展してきた四国地方屈指の工業都市新居浜市、さらには、隣接する西条市、四国中央市にも関連スポットがあるようです。2024年1月、新居浜市内の関連スポットの前を通り過ぎる機会があり、ついでに少し撮影してみました。 作成した動画は通常、国内外の主流プラットフォームで公開した後、リスクを判断した上で、できるだけ、こちら中国大陸の各種プラットフォーム上でも公開するようにしていますが、本作品を中国大陸のプラットフォームにおいても公開するべきかどうかと考えると、少し迷うところです。ちなみに、前々回、渡緬記者長井健司氏の墓に関する動画作品を中国大陸のプラットフォームで公開したところ、噛みついてきたフォロワーが一人いたこともあり、撮影日時の順番からいうと、本動画を構成する写真の撮影日時は、前回作品別子銅山中国人殉難者慰霊之碑を構成する写真の撮影日時よりも早く、順番が逆になってしまいますが、敢えて後者を優先して作成いたしました。 それはさておき、こうした歴史スポットに出くわしたときに、重要なことは、そこから何を学び取るかでしょう。可哀そう、忠君愛国、祖国防衛、あるいは、集団主義、洗脳、戦争と平和、侵略と被侵略等、いろいろな反応があろうかとは思いますが、とりあえず、対米関係についてのみ申し上げれば、自国民に確実な死を迫るという人命軽視の非常手段を使ってでも、天皇制という国体の維持が図られた時代が過去にあったのであり

別子銅山中国人殉難者慰霊之碑/別子銅山中國殉難勞工慰靈碑

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1691年から1973年まで採掘された別子銅山は、日本三大銅山の一つであり、戦時中には、連合国の戦争捕虜、さらには、中国や朝鮮半島から強制連行された方々が強制労働に従事させられて命を落とすケースが少なからずございました。今回、時間の関係により、廃線後にサイクリングコースとして利用されている別子鉱山鉄道跡に途中から入って南下し、愛媛県新居浜市にある別子銅山中国人殉難者慰霊之碑を久々に再訪してみました。 途中、立ち寄った金子山福寿谷古戦場跡は、羽柴秀吉の四国攻めにより、毛利小早川隆景軍が、長宗我部元親側に付いた金子氏を滅ぼした1585年の天正の陣に関する史跡であり、戦国武者像は、天正の陣の死者を弔う舞いに関わる武者の像です。天正の陣では、新居浜・西条一帯の多くの神社仏閣が焼き討ちに遭い、今回、門前を通り過ぎた慈眼寺も従来は金子山の北側にあったものが、天正の陣で焼き払われ、戦闘後も生き残った金子対馬守元春が仏門に入って、長年の修行を経て、金子山城の館跡に再建したものだと言われています。 別子銅山中国人殉難者慰霊之碑が現在立地する瑞応寺も天正の陣で焼き払われ、後に再建されたものだと言われています。瑞応寺の入口の手前側には、地元の戦没者を祭った忠魂碑がありました。別子銅山中国人慰霊之碑は、瑞応寺境内の東端にあり、地図上では、山根西自治会集会所の近くに位置します。そこから北側を眺めれば、瀬戸内海燧灘に浮かぶ魚島、さらには対岸の広島県福山市等を見ることができます。到着した頃には、すでに薄暗くなりつつあり、写真にはそれほどはっきりとは映っていませんが、碑の落款は「住友金属鉱山株式会社別子鉱業所」と記されています。碑は当初1954年に山中にある別子銅山東平地区に建立されましたが、東平坑が休止となった1968年に現在の瑞応寺境内に移設されました。ちなみに、朝鮮人慰霊碑と墓石は、それよりさらに山中に入った別子山にあります。今後、機会があれば、訪れてみたいと思います。 自1691年至1973年期間開採的別子銅山,是日本三大銅礦山之一。二戰期間,盟軍戰俘以及從中國和朝鮮半島被強擄到日本國內的勞工因被強迫從事勞動而喪生的情況屢見不鮮。由於時間關係,我這次中途進入廢線後被用於自行車道的原別子礦山鐵路,沿著該路線往南下,時隔多年再次探訪了位於四國島愛媛縣新居濱市的別子銅山中國殉難勞工慰靈碑。 途中

渡緬記者長井健司氏の墓/赴緬記者長井健司先生墓

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ミャンマーの民主化運動と言えば、1988年の8888民主化運動が有名ですが、2007年のサフラン革命においては、愛媛県今治市出身の長井記者がヤンゴンで取材中に軍の兵士によって射殺され、その後、長い年月を経て、カメラが遺族の手元に返還されたというニュースは記憶になお新しいものがあります。2024年1月、約7年ぶりとなった帰省時に、同じ愛媛県東予地方出身である長井記者の墓を訪ねてみました。 当日は晴天であり、空気は瀬戸内海の対岸までよく見渡せるほど澄んでいました。先に、四国八十八箇所霊場第五十四番札所延命寺を訪れ、市営墓地への道順を教えていただきました。折角ですので、寺の境内を廻ってみると、中国大陸系百済帰化渡来人の子孫であり、飛鳥時代から奈良時代にかけて、社会事業等の分野において功績のあった行基菩薩の報恩供養塔がありました。市営墓地にやって来ると、敷地面積が相当に広く、現場で何人かに尋ねてみたところ、皆さん、あまりご存じないようで、それでも最終的に辿り着くことができました。 長井記者が亡くなられた2007年9月と言えば、私は一時期、歯を磨くにも寝転がる必要があるほどに体調を崩していた大手化学プラントを辞め、今治市の対岸に位置する広島県福山市に転居してまだ間もない頃でした。当時は、体調不良により、考える余裕はあまりありませんでしたが、福山を選んだ理由については、やはり、日本の平和運動の総本山である広島になおこだわりがあったことが一つとして挙げられると思います。翌年2008年5月、久々に船に乗って旅行に訪れた上海で、滞在予定が残り二日となったときに、時間が余ったので、人材会社を覗いてみると、急に仕事が決まり、帰り着いた神戸港にて四川大地震の一報に接し、ビザを取得して、翌6月から上海で働き始めました。暫くしてから、週末に現地の会計学校に通い始め、その後、改革開放の初期から現在も存続している上海魯迅公園日本語コーナーに参加するようになると、当然ながら、2007年長井記者の一件や地震発生から一年後に訪れた四川省阿壩州汶川県の復興状況、2009年コーカン八八事件、そして、国務院温家宝総理を筆頭に政治体制改革が叫ばれていたという時代背景もあり、限定的であるとはいえ、輝いて見えた隣国ミャンマーの民主化進展状況等に言及したこともございました。 思い返せば、上海に渡る少し前の2008年当