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上海交通事故から10年

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10年前というと、私は当時、現地採用外国籍労働者上海社会保険加入闘争ということで、4社目となる経団連構成企業の海外関連法人を相手に闘って、前年2014年に社会保険料の追納には成功したものの、その付帯労働裁判の継続と修士論文という形で記録を残し、総括するため、二審の口頭弁論が終了後に総領事館を訪れて日中社会保障協定の早期締結を要請し、そして翌日に香港九龍紅磡へ向かう越境列車に乗って香港を訪れ、中国ビザを申請し、発行待ちの時間を利用して、一部の労働組合、政党、NGO等の事務所を廻った後、上海に戻ってから、大学に在籍していました。 ただ、世の中も私自身もセンシティブな情勢が続いており、期末の演習発表ということで、私の出番が来るのを待っていたら、一人手前の同級生が発表している最中に、突然、打ち切られて場所が変更になった上で散会となったり、私が乗り込んでいるバスが始発の大学を出発後、間もなく、前方に停車していた乗用車に追突したりする等の異常現象が発生し始め、さらには、何人もの同級生が次々に交通事故に遭遇したということらしく、非常に痛々しく見える包帯巻き等を私に見せつけながら、次はお前が本物の事故に遭う番だぞと言いたげで、事故被害の装いを以って警告を突き付けてきているのではないのかとの疑いの念が湧き上がってきたものでした。また、隣国ミャンマーにおいては、民主化の進展が順調であるかのようにも見える事情もあったので、ミャンマーへの転戦を意見した者もいましたが、私はそれを否定しました。 そして迎えた2015年8月17日夜、市内の別の地域でバスに乗ろうと思って待っていると、来るはずの路線バスが一向に来ないので、確認すると、数日前にその路線が廃止されていたことが分かり、別の路線バスを選んで乗り込んで、最後方座席に着席しようとした瞬間に、左側後方から現れた自動車が走行中のバスを追い越した上で、急にバスの前方を横切って、一気に右側のガソリンスタンドに入り込んだため、バスの運転手は急ブレーキを踏まされて、私はバスの中段まで吹き飛ばされて骨折しました。事故直後、床面に叩き付けられた状態であり、自分では起き上がることもできず、暫くの時間が経過しても無理であったため、起こしてもらって、付近の座席に着席後に自分でもバス内を少し撮影しましたが、当日の重要な写真は乗り合わせた乗客にカメラを渡して撮影...

8月15日に

蝦夷共和国や台湾民主国は比較的短期間の内に、旧日本帝国によって滅ぼされてしまったがために、アジア最古の共和国と言えば、通常、中華民国が挙げられます。 日本の幕末期においては、大政奉還によって、本来なら、平和的転換が可能であったにも関わらず、敢えて戊辰戦争に持ち込まれたため、旧日本帝国は、その後、対外的膨張を繰り返し、暗殺や軍事的決着が習慣的になってしまいました。 1890年になってようやく帝国憲法が施行され、帝国議会も設置されましたが、所詮は、天皇の威光を利用して運営されていた帝国であり、民のために運営された民国というわけではありませんでした。 強力な武器があれば、幼児でも、人を殺せてしまえるわけですから、近代戦では、どちらの方がより民主的、文明的、先進的であるかではなく、強力な軍備がある一方が、平原地帯では、勝ててしまったりするのが現実です。 建国後の混乱によって、中華民国東北地方には軍閥が存在していましたが、その領袖を爆殺し、退位した清王朝の皇帝を担ぎ出して傀儡帝国をつくり上げ、その後、日中戦争を遂行し、さらには世界を相手に暴発してしまった旧日本帝国。 権威主義的な帝国が隣の共和国の国内統一や民主化を阻みながら、さらには、全面的侵略を企図したものの、最終的に、失敗に終わりました。ただ、本当に勇気があれば、突撃や特攻ではなく、誤った政策の推進に反対し、戦争の勃発を未然に防ぐべきでした。

短歌:日本軍「慰安婦」被害者国際記念日に(2025年8月14日)

遠くまで 連れて行かれた 少女達 生きて帰るも 辛き人生 今回は、上記のように詠んでみました。実際には、戦時中や戦後に、異郷で亡くなられたケースや、現地に放置されたりして、長い間、帰れなかったりしたケース等、様々なケースがあったことでしょう。

雷震先生設立長安小学校旧址、湖州長興陳武帝故宮(2021年)/雷震先生籌建長安小學舊址、湖州長興陳武帝故宮(2021年)/雷震先生筹建长安小学旧址、湖州长兴陈武帝故宫(2021年)

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  台湾の民主化に大きな貢献があった人物の一人として挙げられる雷震先生は、現在の浙江省湖州市長興県の出身で、東京の東亜高等予備学校、旧制第一高等学校特設予科、名古屋の旧制第八高等学校、京都帝国大学法学部・大学院での留学経験があり、その後、中華民国政府で要職を務められました。国共内戦の末期、雷震先生は上海で雑誌「自由中国」の創刊を準備していましたが、中共軍の南下速度が速かったがために、1949年11月に台湾で雑誌「自由中国」を創刊しました。そして、自由中国社の社長として、1950年代の台湾の言論界をリードしました。ただ、1950年代において、一部の知識人達は今こそ台湾で民主化を推し進めるべきだと考えたのに対し、中国国民党蒋介石政権は統制強化を企図し、両者の間には発展の方向性において大きな隔たりがありました。実は、憲法の規定により、総統職の再任回数は一度限りが許されていたわけですが、蒋介石政権二期目の後半においては、当然ながら、三連投問題や野党設立問題が議論されることになりました。しかしながら、1960年3月、臨時条項の規定を変更して、憲法上の再任に関する規定を凍結することによって、蒋介石は総統選に出馬し、三連投を果たしました。これに対して、雷震先生は傅正先生等とともに野党たる中国民主党の創設を準備していたところ、1960年9月、中国国民党蒋介石政権によって逮捕されてしまいました。これが自由中国事件、雷震事件です。雷震先生は10年間の服役を終えて、1970年に出所後、1979年に逝去されました。そして、月日は流れ、2002年9月になって、民進党陳水扁政権の下で名誉が回復されました。 続いて、本動画の内容について補足すると、呉山大橋は、従来の旧大橋であり、その後、東側に新大橋が開通して、便利になったようです。長安小学校は、雷震先生が地元呉山小渓口村に設立したもので、1935年に完成して使用されました。日中戦争期には、雷震先生の地元でも日本軍による掃討作戦が実施され、長安小学校も損害を受けたとのことであり、雷震先生の母親も日本軍によって殺害されてしまいました。現在、弘怙堂という名称の建物が長安小学校旧址陳列館、小溪口村郷賢館として使用されていて、その西側は再開発によって総合市場になっています。北塘頭長安橋は、湖州市安吉県梅溪鎮小溪口村北塘頭自然村にあり、清代に建設さ...