3月7日雷震忌:戦時中に殺害された雷震先生の母/3月7日雷震忌日:二戰時期被日軍殺害的雷母
台湾の民主化の過程における重要な歴史的出来事の一つに、自由中国事件、雷震事件がある。台湾への撤退後、総統三連投をもくろむ蒋介石に対し、「自由中国」という雑誌を台湾で出版していた浙江省出身の雷震は、政権批判を強め、さらには野党「中国民主党」の創設を準備していたところを1960年に逮捕されたのであった。10年にわたる投獄生活を経て、美麗島事件が発生した1979年に亡くなったが、名誉回復がなされたのは2002年の民進党陳水扁政権時代であった。雷震は、早くは日本の京都帝国大学等に留学、帰国後は国民政府の高官等を務め、自由、民主、平和のために尽力したが、その母親陳氏は戦時中の1938年2月20日に日本軍によって殺害されたという(范泓「雷震伝:民主在風雨中前行」(大陸版電子書籍、広西師範大学出版社、2013年)。このように殺害日時が分かっているだけに、雷震の母親陳氏を殺害したという日本兵が、どの部隊に所属していたのか、当時はどういう状況にあったのか、その一端だけでも分からないものかと、今年の雷震忌はネット上で少し調べてみた。時間の関係により、断片的であるが、今回は以下の二師団に関するものを幾つか列挙してみる。
なお、雷震の地元については、小渓口、現在の浙江省湖州市長興県和平鎮小渓口村である。小渓口という村落自体は、小さな川を隔てた浙江省湖州市安吉県梅渓鎮小渓口村にも跨っている。小渓口は、地形から見れば、その名のとおり、西苕渓という大きな川に流れ込む小さな支流の入口という場所に位置している。そこに架かる長安橋の近くには、長安橋が安吉県の保護対象の歴史的建造物であることを説明する石碑とともに長興県と安吉県との境界を示す標識がある。ご参考までに、二年前の春に訪れた雷震の地元小渓口を撮影した動画はこちら。
1.第18師団牛島部隊
1-1.「聖戦記念 牛島部隊 第一輯:第一輯 昭和十二年 支那事変出征記念写真帖 牛島部隊特輯」(牛島部隊、三益社、1939年)
この写真帖の中には「牛島部隊主要戦闘一覧表」が収められており、その表によれば、牛島部隊は1937年11月に上海金山衛に上陸後、湖州、南京等での戦闘を経て、1938年の「自一月一日至七月六日」においては「杭州付近警備」を担当し、その内、「自二月十八日至二月二十五日」は「孝豊安吉附近討伐戦」、「自三月十七日至三月二十七日」は「広徳塘棲附近討伐戦」、「自四月二十二日至五月十七日」は「徐州会戦策応戦」に従事したことになっている。この時期に対応する「戦闘概況」欄には「武康警備隊ノ機敏ナル敵軍掃蕩」という記述がある。武康警備隊とともに長興警備隊という組織があったことについては、後ほど触れることにする。なお、ここに出てくる武康は現在の湖州市徳清県武康街道、孝豊は現在の湖州市安吉県孝豊鎮、広徳は現在の安徽省宣城市広徳市で安吉県の隣の市、塘棲は現在の杭州市臨平区塘栖鎮で湖州市の隣にある杭州市臨平区に属する鎮であろう。いずれもおおよそ太湖の南から南西一帯の地域にあり、雷震の地元である小渓口も、それらの地域の中にある。この史料によれば、「1938年2月20日当日」は牛島部隊による「孝豊安吉附近討伐戦」の最中であったわけで、雷震の母親は、この戦闘に巻き込まれたのかもしれないし、別の部隊による戦闘に巻き込まれたのかもしれない。
1-2.「中支軍情報記録送付の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120667300、支受大日記(密)其65 73冊の内 昭和13年自12月5日至12月12日(防衛省防衛研究所)
「極秘 陸軍省受領 陸支密受第四一二四号 中支軍情報記録 第三十九号 四月二十日 午後六時 軍ノ状況」という件名等の下、「牛島部隊 一、第七十六師ノ数百ノ敵ハ十六日未明長興南方李家巷ニ対シ攻撃シ来リシヲ以テ歩兵一大隊ヲ派遣シ之ヲ撃退ス 敵ノ遺棄死体 五〇 我損害 戦死四 負傷十三 二、武康東北約十五粁埭溪鎮附近ノ橋梁ハ十七日夜爆薬ヲ以テ破壊セラル 十九日野戦衣糧廠ノ一部隊ハ午前十時頃機関銃ヲ有スル敵ノ又橋梁補修中ノ工兵隊ハ約一中隊ノ敵ノ襲撃ヲ受ケシモ之ヲ撃退ス」(PDF3~4ページ)とある。ここに出てくる第76師は国民革命軍の第76師、李家巷は現在の湖州市長興県李家巷鎮、埭溪鎮は現在の湖州市呉興区埭溪鎮であろう。1938年4月の長興近辺は、このような感じであった。
1-3.「里山埠及白鹿山附近戦闘詳報 第3号 昭和13年5月6日 第18師団配属兵站自動車第5中隊第1小隊」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111998000、第18師団配属自動車第5中隊 外蕩(湖州南方約8粁)附近 戦闘詳報 昭和13年5月5日(防衛省防衛研究所)
「兵自五戦詳第三号 昭和十三年五月六日 里山埠及白鹿山附近戦闘詳報 第十八師団配属 兵站自動車第五中隊第一小隊」という件名等の下、「一、戦闘前ノ状況 1.菁山湖州附近ノ山系ハ敵ノ出没甚シク杭州ヨリ湖州及長興ニ通スル諸道路ハ敵ノ為頻々ニ各所ヲ遮断セラルゝノ状態ニ在リ 2.第十八師団李家巷附近ノ掃蕩ニ伴ヒ自動車第五中隊第一小隊ハ湖州警備隊ニ弾薬ノ輸送ヲ命セラル」(PDF2ページ)とある。ここに出てくる菁山は現在の湖州市呉興区にある山だろう。小渓口の近くにある呉山とは、同じ山地帯に属するといえよう。1938年5月の長興近辺は、このような感じであった。
2.第114師団とその旗下の歩兵第150連隊
2-1.「陣中日誌 自昭和12年10月12日至昭和12年12月31日 歩兵第150連隊(8)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111560200、陣中日誌 自昭和12年10月12日至昭和12年12月31日(防衛省防衛研究所)
歩兵第150連隊の陣中日誌の中に1937年12月29日付けで、「十二月二十九日 小雨……長警作命第三号 長興警備隊命令 於長興警備隊本部 十二月二十九日午後八時 一、師団ハ昨二十八日以降其行動ヲ開始シ新配備ニ就キツゝアリ 二、聯隊(騎兵一小隊野砲兵一中隊工兵一小隊師団通信隊無線一分隊衛生隊三分ノ一第三野戦病院ノ一部ヲ配属セラル)ハ爾今師団長直轄ノ許ニ長興警備隊トナリ一一四師作命甲第六七号ニ基ク新配備ニ就キ担任区域ヲ警備スルト共ニ敗残兵ノ掃蕩隠匿兵器及軍需資材ノ蒐集及戦場掃除、破壊行通路ノ回復並ニ確保(炭鉱鉄道ノ掩護ヲ含ム)ニ任シ併テ兵要地理調査ノ実施ヲナサントス 三、各警備中隊ハ本二十九日以降左ノ配備ニ就キ其ノ担任区域内ニ於テ前第二項ノ任務ニ服スベシ 但シ天平橋警備中隊ハ三十日長興ヲ出発同日中ニ配備ヲ完了スヘシ……歩兵第百五〇聯隊第六中隊(ⅡMG1/2配属)ハ大平橋警中隊トナリ大平橋(長興西南方約二十粁)ヲ警備」(PDF46~49ページ)とある。第114師団は南京陥落後、12月29日に湖州へ到着したとの記述のある史料については後ほど触れることにするが、同日、長興にも歩兵第150連隊が到着して早速上記の命令を出し、新たな長興警備隊が始動したということであろう。なお、上記「大平橋警中隊トナリ大平橋」(PDF49ページ)という部分には「大平橋」という地名が前後して二度出てくるが、一つ目の「大平橋」の「大」という文字の筆跡は「太」にも「天」にも見え、後から横棒や点が付け加えられているような感じもする。天平橋についても、後ほど改めて触れることにするが、実際のところ、長興県内やその周辺地域には「天平橋」「大平橋」「大平村」「太平橋村」といった似たような地名がある。当時の地図にも少し問題があって、「湖州武康長興附近兵要地誌概説 昭和13年1月調製 第114師団参謀部」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111986600、戦闘詳報其他綴 昭和12年~13年(防衛省防衛研究所))には、「昭和十三年一月調製 湖州武康長興附近兵要地誌概説 第百十四師団参謀部」という件名等の下、「昭和十二年ノ八月調製十万分ノ一地誌図ハ地貌ノ現出ハ概ネ正確ナルモ梯尺現地ト不一致ナリ……之ニ依リ修正スルニアラスハンハ地図ノ正確ハ期シ得ラサルヘシ」(PDF18ページ)とある。それゆえ、地理の把握について、まだ慣れない部分があったのだろう。
また、陣中日誌の中に1937年12月31日付けで、「十二月三十一日 雨天 於長興……長興警備命令 十二、三一 於長興警備司令部 一、後備歩兵大隊ハ下泗安ニ位置シ其ノ一部ハ大雲寺(長興西南方約七粁)ニ在リテ長興─広徳道ノ警備ニ任シアリ……三、天平橋警中隊ハ爾今林城橋警備中隊トナリ主力ヲ以テ林城橋(長興西南方約八粁)ヲ警備シ前任務ヲ続行スヘシ 特ニ大雲寺警備部隊ト密ニ連絡スルヲ要ス」(PDF56~57ページ)とある。ここに出てくる下泗安は現在の湖州市長興県泗安鎮の近辺、大雲寺は現在の湖州市長興県林城鎮大雲寺村であろう。林城橋については、後ほど触れることにする。1937年12月の長興近辺は、このような感じであった。
2-2.「状況報告 昭和13年1月17日 第114師団司令部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089500、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所)
「昭和十三年一月十七日 状況報告 第百十四師団司令部」という件名等の下、「一、軍紀、風紀、服務ノ状態 師団出動以来団下将兵ハ志気極メテ旺盛ニシテ其軍紀風紀ノ状態亦概ネ良好ナリ 将校以下服務ノ状態ハ概ネ良好ニシテ未熟ノ為成果ノ努力ニ伴ハサルモノ未タ其数比較的多キモ皆能ク真摯精励シアルヲ以テ時日ノ経過ニ伴ヒ漸次良好ノ域ニ達シ得ルモノト信ス 二、警備状況 1.一般ノ状況 警備担任地区内一般ノ状況ハ概ネ平静ナルモ夾浦鎮北方及湖州西南方ノ各山地内並皇皐鎮方面ニハ未タ敗残兵及土匪潜在シアリテ附近村落ニ出没シアルモノゝ如シ 2.警備配置 師団ハ警備担当地区内ヲ長興、湖州、武康、晟舎鎮ノ四警備地区ニ分チ各地区ニ夫々諸兵連合ノ部隊ヲ配置シテ其担当地区内ニ於ケル警備、残敵ノ掃蕩、治安維持ニ任セシムルト共ニ一部ノ兵力ヲ湖州ニ控置シテ師団ノ直轄トナシアリ 其配置別紙要図ノ如シ 3.掃蕩状況 本一月初以来各警備隊ハ各地区毎ニ掃蕩ヲ実施中ナルモ未タ殆ント敵兵ヲ認メス 然レトモ敵ハ容易ニ便衣トナリ兵匪ト土民トノ判別困難ナルニ鑑ミ師団ハ更ニ掃蕩ノ手段方法ニ工夫ヲ重ネ準備ヲ周到ニシ以テ掃蕩ノ効果ヲ徹底的ニ収ムルコトニ依リ地方ノ粛正ヲ期セントス 湖州東南方ノ大クリーク地帯並太湖沿岸地帯掃蕩ノ為ニハ相当数ノ舟艇ヲ要スルヲ以テ師団ハ舟艇ノ蒐集ニ努ムルト共ニ碇泊場司令部ノ協力ヲ得ントシアルモ未タ十分ニ其目的ヲ達スルニ至ラス 4.治安ノ状態 幹線道路沿道ノ住民ハ他ニ避難シアリシモ最近逐次帰村シツゝアリ 其他ノ部落民ハ避難スルコトナク生業ニ従事シ日本軍ニ対シテハ表面好意ヲ表シツゝアリ 今ヤ主要都市部落ニハ治安維持会設置セラレ之ヲ中心トシテ其周囲ノ村落ニ及ホシ日ヲ経ルニ従ヒ帰郷土民ヲ増加シツツアリ 一般ノ住民亦漸ク日本軍ヲ理解シ逐次我ヲ信頼スルノ風ヲ見得ルニ至レリ」(PDF3~5ページ)とある。ここに出てくる「諸兵連合ノ部隊ヲ配置」(PDF4ページ)という部分について、「附図 第114師団警備配置要図 1月15日に於ける」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089600、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所))には、各警備地区の範囲とともに軍隊記号にて兵力配置が示されている。例えば、湖州警備地区には「128iB(-150i)」等、長興警備地区には「150i」等、小渓口と同じ長興県南部に位置する林城橋にも「6±MG/150i」という軍隊記号が記されており、長興一帯には歩兵第128旅団歩兵第150連隊が配置されていたということが分かる。また、その南隣りに位置する武康警備地区には「127iB(-102i)」等、武康城には「Ⅱ/66i」等の軍隊記号が記されており、武康一帯には同じく第114師団旗下の歩兵第127旅団歩兵第66連隊が配置されていたということが分かる。また、ここには便衣に関する記述がある。誤って殺害される民間人もいたのであろうか。なお、ここに出てくる夾浦鎮は現在の湖州市長興県夾浦鎮、皇皐鎮という地名は不明、晟舎鎮は現在の湖州市呉興区織里鎮であろう。1938年1月の長興近辺は、このような感じであった。
2-3.「戦時旬報 第9号 昭和13年自1月20日至1月31日 第114師団司令部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111980700、戦時旬報綴 第1~26号 昭和12年11月1日~13年7月20日(防衛省防衛研究所)
「昭和十三年自一月二十日至一月三十一日 戦時旬報 第九号 第百十四師団司令部」という件名等の下、「一、彼我両軍状況ノ概要 当師団警備地区内ノ情勢 1.湖州警備隊ヨリノ情報 (イ)一月二十三日長興警備隊所属ノ一ヶ中隊ハ同日午前八時駐屯地出発林城橋西南方梅渓鎮附近掃蕩ノ際便衣ヲ着セル約百名ノ敵ト遭遇シ其約四十名ヲ斃シ之ニ殱滅的打撃ヲ与ヘタリ 我損害負傷五名……2.長興警備隊ヨリノ情報 (イ)一月二十三日午後二時頃水口鎮ニ便衣(支那長服)ヲ着スル敗残兵三十名現ハレ煤山方向ニ逃走セリ (ロ)林城橋附近情報 一月二十二日Ⅱ/150i長会田少佐ノ指揮スル第五、第七中隊ノ一小隊MG小隊ハ天平橋─送天橋─梅渓鎮附近ニ討伐ニ出動シ翌二十三日午前九時二十分頃梅渓鎮北方約一千米ノ水田一本道ヲ前進中後方山林及東方クリーク堤防上ヨリ突如約七十名(軽機一ヲ有ス)ノ十字火ヲ受ケ大隊ハ直チニ応戦敵ヲ東北方ニ潰走セシメタリ 敵ニ與ヘタル損害約四十名 我損害軽傷者五名 MG予備馬一頭 (ハ)一月二十二日正午過頃長興警備隊所属ノ天平橋警備中隊ハ掃蕩ノ為天平橋附近ニ出動中 其残留員ハ天平橋─梅渓鎮ノ中間地区極メテ騒然タルヲ知リ一部ノ斥候ヲ同方向ニ偵察ノ為メ派遣セリ 該斥候小口伍長以下四名ハ敵六十ニ遭遇シ之ヲ攻撃シタルモ敵ハ増兵シ来リ遂ニ包囲攻撃ヲ受ケタルニ至リ斥候四名ノ内 竹内一等兵戦死シ、小口伍長大島一等兵ノ二名ハ行衛不明、市川一等兵ハ重傷ヲ負ヘリ 中隊ハ掃蕩ヨリ帰還後右情況ヲ知リ直チニ一小隊ヲ派遣シ当大隊長ハ一ヶ中隊ヲ同地附近ニ派遣シ之ヲ掃蕩セリ 敵ハ約四十ノ死体ヲ残シ何レカニ逃走セリ 其ノ後引続キ二名ノ行衛不明ノ者ヲ捜索スルモ発見スルヲ得ス 目下諸方向ニ対シ一小隊以上ノ兵力ヲ出シ捜索ヲ続行中ナリ……(ヘ)通信班ヨリノ通報ニ依レバ長興─林城橋電話線ハ二回切断セラレタリト」(PDF3~4ページ)とある。ここにも便衣に関する記述がある。なお、ここに出てくる梅渓鎮というのは、雷震の地元小渓口の一部分が属する現在の湖州市安吉県梅渓鎮のことであろう。
上記のような状況に対して、「4.一月二十二日湖州警備隊ニ左記命令ヲ与ヘ掃蕩其他諸工作ヲ実施セシム 第百十四師団命令 一月二十二日 於湖州 一、湖州警備隊ハ長興、武康警備隊ノ各一部ヲ併セ指揮シ廟西西方地区ノ掃蕩ニ任スヘシ 二、長興、武康警備隊ハ二十四日以後右掃蕩間大隊長ノ指揮スル一部隊ヲ湖州警備隊司令官ノ指揮ニ入ラシム (イ)湖州警備隊ハ左ノ如ク掃蕩隊ヲ編成シ一月二十五日日没後夫々其主力ノ行動ヲ開始ス (一)林部隊(武康警備隊ノ歩兵三中隊、機関銃一小隊、師団無線一)ハ三橋埠出発一部ヲ以テ山河埠─「ペーツオン」道ヲ「ペーツオン」南方高地線ニ主力ヲ以テ小市鎮─和平道ヲ和平ニ向ヒ (二)大塚部隊(長興警備隊ヨリ兵力(イ)に同シ)ハ長興出発一部ヲ以テ同地ヨリ南進シテ「ツオンパイ」ニ主力ヲ以テ林城橋方向ヨリ小口渓ニ至ル陸路及水路ヲ小口渓ニ向ヒ (三)西村部隊(湖州警備隊ノ歩兵二中隊、機関銃一小隊、師団無線一)ハ湖州出発廟西─「ペーツオン」道ヲ「ペーツオン」ニ向ヒ (四)警備隊長ハ歩兵一中隊師団無線一分隊ヲ直轄シ西村討伐隊ノ近路ヲ廟西西側地区ニ向フ (ロ)各部隊ノ行動 各部隊ハ一月二十六日未明敵根拠地ヲ奇襲シ同地附近一帯ノ掃蕩ヲ実施シタル後翌二十七日夕迄ニ各警備地区ニ夫々帰還ス」(PDF5~6ページ)とある。上側ですでに触れた「附図 第114師団警備配置要図 1月15日に於ける」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089600、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所))の中に、廟西、ペーツオン、和平、天平橋、林城橋という地名が記載されており、その内の和平、天平橋、林城橋は位置関係から見れば、それぞれ現在の湖州市長興県和平鎮、湖州市長興県林城鎮天平村、湖州市長興県林城鎮であろう。和平から遠くない東南東方向にペーツオンが、ペーツオンから遠くない東南東方向に廟西が記されている。ただ、そうすると上側ですでに触れた「林城橋(長興西南方約八粁)」という部分は、距離があまり正確ではないように感じる。また、ここに出てくる「小口渓」という地名については、「小渓口」ではないのか?「小口渓」という地名がここで二度出てくるが、二つ目の「小口渓」は、「小渓」という二文字の間の右側に小さく四分の一以下の大きさで「口」という一文字が後から手で書き加えられているのが明白である。「小渓」といえば、当時も今も小渓村という地名が「小渓口」から南へ直線距離で15km程度離れた湖州市呉興区に存在しており、1937年の大日本帝國陸地測量部による「上海杭州近傍図 南京廣徳近傍図」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C16120492800、上海杭州南京廣徳近傍図(防衛省防衛研究所))(PDF14ページ)にもその記載があるが、この小渓村は山中であるので、水路で行くのは、かなり難しいと思われ、普通に考えて、この小渓村のことではないと思われる。この地図の中には、現在の「小渓口」あたりの位置に「小渓鎮」という地名の記載がある。また、林城鎮から「小渓口」の間には確かに水路というか、小さな川があって繋がっている。ゆえに、ここに出てくる「小口渓」というのは、やはり「小渓口」を指す可能性が高いように思われる。さらに指摘すると、ここに出てくる「(二)大塚部隊(長興警備隊ヨリ兵力(イ)に同シ)」(PDF6ページ)という部分は、意味から判断して「(イ)」ではなくて「(一)」であると思われる。この部分は、筆跡がやや不自然に感じられ、当初はアラビア数字で「(1)」と記載されていたのを後から縦棒に手で左払いを加えて「(イ)」にしてしまったような感じもする。「小口渓」と「小渓口」、「(イ)」と「(1)」の二つの問題からも、この史料は記載が少し雑であるように見受けられる。それはさておき、地名とそれらの位置関係を考えれば、小渓口近辺の地域に向けて周囲から包囲するような進軍が想定されていたのが見えてくるだろう。
続いて、上記の命令に対する「成果」についての記述がある。「(ハ)其ノ成果ノ概要左ノ如シ (一)西村部隊 安藤先遣隊ハ一月二十五午後四時過廟西西側高地ニ據リ軽機ヲ有スル敵約百名ト遭遇シ交戦二時間ノ後午後六時四十分之ヲ西南方ニ潰走セシム 敵ノ遺棄死体二 我ニ損害ナシ (二)林部隊 一月二十六日午前五時五十分小市鎮ニ於テ集合中ナリシ軽機一、小銃三ヲ有スル敵十名ヲ急襲シ殲滅シタル外掃蕩間残敵五名ヲ射殺ス 我ニ損害ナシ 鹵獲品、軽機(捷克式)一、「スタンダート・モーゼル」銃二、 (三)大塚部隊 一月二十六日未明泉渓附近ニ於テ三、四十ノ敵ヲ攻撃シ其大部ヲ殲滅セリ 敵ノ遺棄死体二十四 我ニ損害ナシ 本掃蕩ノ結果該地区附近ニハ呉興県抗日遊撃大隊(隊長部士龍、副官彭林政訓、主任王文林)兵力約三百(MG・LGヲ有ス)横行シアルコトヲ知リ得タリ 5.師団ハ引続キ警備治安維持ニ任シ転進ノ諸準備ニ遺憾無キヲ期シツツアリ」(PDF6~7ページ)とある。ここに出てくる転進の二文字は、華北への転出を指すのであろうか。これについては、後ほど改めて触れることにする。また、呉興県抗日遊撃大隊について検索してみると、確かに情報がヒットする。その存在を知った後、上層部に報告し、その後、第114師団の華北への転出に伴って新たに長興警備隊として配属された別の部隊に情報が引き継がれ、「1938年2月20日当日」に繋がったのだろうか。1938年1月の長興近辺は、このような感じであった。
2-4.「陣中日誌 自昭和13年2月1日至昭和13年2月28日 輜重兵第114連隊第1中隊(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111354300、輜重兵第114連隊第1中隊陣中日誌 4/14 昭和13年2月1日~13年2月28日(防衛省防衛研究所)
「湖州附近ニ於ケル 戦闘詳報 自昭和十三年二月十六日午後八時五十分至同日午後十一時〇分 輜重兵第百十四聯隊第一中隊」という件名等の下、「輜一一四作命第四九号 輜重兵第百十四聯隊命令 二月十九日午後四時 於上海本部 一、師団ハ去ル十六日ヨリ逐次船舶輸送ニヨリ先ス大連ニ向ヒ移動実施中ナリ 二、聯隊ハ明二十日ヨリ二十四日ニ至ル間ニ於テ呉淞及上海ヨリ乗船近く師団主力ヲ追及セントス」(PDF13ページ)とある。また、「輜重兵第百十四聯隊検疫実施計画表」には、各部隊の検疫日が2月18日から2月22日の間に順次定められている(PDF15ページ)。そして、「輜重兵第百十四聯隊行動計画表」には、各部隊の上海到着日、宿営地、検疫日、乗船地、乗船日等が記載されており、2月17日から2月21日の間に順次上海に到着して、乗船日は2月20日と2月23日に定められている(PDF16ページ)。続いて、実際に「二月二十日呉淞ニテ乗船」(PDF17ページ)という陣中日誌になっている。ゆえに、この部隊が「1938年2月20日当日」に小渓口で戦闘を実施するような余裕はなさそうな感じである。
2-5.「11 第114師団状況報告」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110933200、北支那方面軍状況報告綴 昭和12年10月25日~昭和14年6月25日(防衛省防衛研究所)」と「状況報告 第114師団」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111600600、状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所)
「状況報告 第百十四師団」という件名等の下、「師団ノ行動並配備ノ概要 一、師団ハ昨年十月十二日動員ヲ令セラレ二十一日之ヲ完結スルヤ直ニ其衛戍地ヲ出発シ大阪ニ集合ノ上十月三十日頃同地出帆五島列島ヲ経テ十一月五日杭州湾ニ到リ海上ニ待機スルコト約五日ノ後十日漸ク金山衛城附近ニ上陸セリ爾後新倉鎮附近ニ於テ敵ノ堅陣ヲ抜キ楓涇鎮、嘉興、平望鎮ヲ経テ湖州城ニ近迫シ国崎支隊ト協力シテ之ヲ攻略セリ爾来師団ハ軍ノ先頭ニ在リテ前進シ先ツ窑水橋ノ敵陣ヲ突破シテ夜間急追ヲ敢行シ敵ノ虚ヲ衝キテ長興ヲ陥レ更ニ北進シテ夾浦鎮北方ノ敵ノ堅砦ヲ屠リテ宜興、溧陽、溧水ノ諸城ヲ抜ケリ越テ秣陵関及将軍山附近ノ敵ノ堅陣ヲ撃砕シテ長駆南京城ニ迫リ力攻数日ノ後十二月十二日午後一時頃遂ニ雨花門附近南京城頭高ク日章旗ヲ翻スノ光栄ト感激ニ浴スルヲ得タリ 師団ハ命令ニ依リ反転東南進シテ十二月二十九日湖州ニ到リ同地附近警備ノ任ニ服シアリシカ大命ニ依リ二月十二日同地出発上海、大連、北京ヲ経テ二月末頃保定ニ到着シ同地附近ノ警備ニ任セリ」(それぞれPDF3~7、2~6ページ)とある。つまり、湖州近辺の警備を担当していたところを、華北への転出により、1938年2月12日にはすでに湖州を離れており、「1938年2月20日当日」には湖州にはいなかったということであろう。そういうことであれば、雷震の母親を殺害したのは、第114師団ではなかった可能性が高いように思われる。
以上、日本に留学経験があり、台湾の民主化に功績のあった雷震先生とそのご家族に対して旧日本軍が打撃を与えたということであれば大変残念な話である。今後も機会があれば、また調べてみようと思う。なお、上海から湖州への高速鉄道は現在すでに杭州経由で乗り換え不要の便が運行しており、今後は上海から湖州への直通ルートの高速鉄道も開通するようであり、ますます便利になる。将来また機会があれば、湖州、長興を訪れてみたいと思う。
昨年の雷震忌に作ってみた短歌はこちら。
短歌:雷震忌に
彼の地では
成し遂げられた
民主主義
嘗ての悪夢
今や灯台
【3月7日雷震忌日:二戰時期被日軍殺害的雷母】
自由中國事件、雷震事件是在台灣民主化過程中發生的重要歷史事件之一。遷台後,在台灣出版發行《自由中國》半月刊的浙江人氏雷震先生不僅對企圖三次連任総統的蔣介石加強批評,還籌備創立在野黨「中國民主黨」,結果以莫須有的罪名被捕於1960年,經歷10年囚禁生活後,去世於發生美麗島事件的1979年,民進黨籍阿扁主政時期的2002年才得以平反昭雪。雷震早年留學於日本京都帝國大学等學校,回國後任國民政府高級職務等,致力於自由、民主、和平。但說起雷震的母親陳氏,她在二戰期間的1938年2月20日被日軍殺害(范泓《雷震傳:民主在風雨中前行》(大陸版電子書、廣西師範大學出版社、2013年)。既然有具體的遇害日期,那麼應該可以查到相關日軍士兵大概屬於哪個部隊,或者當時的大致情況吧……。於是,今年的雷震忌日則網絡上稍微查了一下相關訊息。因為時間原因,這次只列舉以下兩個日軍師團的幾份史料。
(以下是日文)
なお、雷震の地元については、小渓口、現在の浙江省湖州市長興県和平鎮小渓口村である。小渓口という村落自体は、小さな川を隔てた浙江省湖州市安吉県梅渓鎮小渓口村にも跨っている。小渓口は、地形から見れば、その名のとおり、西苕渓という大きな川に流れ込む小さな支流の入口という場所に位置している。そこに架かる長安橋の近くには、長安橋が安吉県の保護対象の歴史的建造物であることを説明する石碑とともに長興県と安吉県との境界を示す標識がある。ご参考までに、二年前の春に訪れた雷震の地元小渓口を撮影した動画はこちら。
1.第18師団牛島部隊
1-1.「聖戦記念 牛島部隊 第一輯:第一輯 昭和十二年 支那事変出征記念写真帖 牛島部隊特輯」(牛島部隊、三益社、1939年)
この写真帖の中には「牛島部隊主要戦闘一覧表」が収められており、その表によれば、牛島部隊は1937年11月に上海金山衛に上陸後、湖州、南京等での戦闘を経て、1938年の「自一月一日至七月六日」においては「杭州付近警備」を担当し、その内、「自二月十八日至二月二十五日」は「孝豊安吉附近討伐戦」、「自三月十七日至三月二十七日」は「広徳塘棲附近討伐戦」、「自四月二十二日至五月十七日」は「徐州会戦策応戦」に従事したことになっている。この時期に対応する「戦闘概況」欄には「武康警備隊ノ機敏ナル敵軍掃蕩」という記述がある。武康警備隊とともに長興警備隊という組織があったことについては、後ほど触れることにする。なお、ここに出てくる武康は現在の湖州市徳清県武康街道、孝豊は現在の湖州市安吉県孝豊鎮、広徳は現在の安徽省宣城市広徳市で安吉県の隣の市、塘棲は現在の杭州市臨平区塘栖鎮で湖州市の隣にある杭州市臨平区に属する鎮であろう。いずれもおおよそ太湖の南から南西一帯の地域にあり、雷震の地元である小渓口も、それらの地域の中にある。この史料によれば、「1938年2月20日当日」は牛島部隊による「孝豊安吉附近討伐戦」の最中であったわけで、雷震の母親は、この戦闘に巻き込まれたのかもしれないし、別の部隊による戦闘に巻き込まれたのかもしれない。
1-2.「中支軍情報記録送付の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120667300、支受大日記(密)其65 73冊の内 昭和13年自12月5日至12月12日(防衛省防衛研究所)
「極秘 陸軍省受領 陸支密受第四一二四号 中支軍情報記録 第三十九号 四月二十日 午後六時 軍ノ状況」という件名等の下、「牛島部隊 一、第七十六師ノ数百ノ敵ハ十六日未明長興南方李家巷ニ対シ攻撃シ来リシヲ以テ歩兵一大隊ヲ派遣シ之ヲ撃退ス 敵ノ遺棄死体 五〇 我損害 戦死四 負傷十三 二、武康東北約十五粁埭溪鎮附近ノ橋梁ハ十七日夜爆薬ヲ以テ破壊セラル 十九日野戦衣糧廠ノ一部隊ハ午前十時頃機関銃ヲ有スル敵ノ又橋梁補修中ノ工兵隊ハ約一中隊ノ敵ノ襲撃ヲ受ケシモ之ヲ撃退ス」(PDF3~4ページ)とある。ここに出てくる第76師は国民革命軍の第76師、李家巷は現在の湖州市長興県李家巷鎮、埭溪鎮は現在の湖州市呉興区埭溪鎮であろう。1938年4月の長興近辺は、このような感じであった。
1-3.「里山埠及白鹿山附近戦闘詳報 第3号 昭和13年5月6日 第18師団配属兵站自動車第5中隊第1小隊」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111998000、第18師団配属自動車第5中隊 外蕩(湖州南方約8粁)附近 戦闘詳報 昭和13年5月5日(防衛省防衛研究所)
「兵自五戦詳第三号 昭和十三年五月六日 里山埠及白鹿山附近戦闘詳報 第十八師団配属 兵站自動車第五中隊第一小隊」という件名等の下、「一、戦闘前ノ状況 1.菁山湖州附近ノ山系ハ敵ノ出没甚シク杭州ヨリ湖州及長興ニ通スル諸道路ハ敵ノ為頻々ニ各所ヲ遮断セラルゝノ状態ニ在リ 2.第十八師団李家巷附近ノ掃蕩ニ伴ヒ自動車第五中隊第一小隊ハ湖州警備隊ニ弾薬ノ輸送ヲ命セラル」(PDF2ページ)とある。ここに出てくる菁山は現在の湖州市呉興区にある山だろう。小渓口の近くにある呉山とは、同じ山地帯に属するといえよう。1938年5月の長興近辺は、このような感じであった。
2.第114師団とその旗下の歩兵第150連隊
2-1.「陣中日誌 自昭和12年10月12日至昭和12年12月31日 歩兵第150連隊(8)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111560200、陣中日誌 自昭和12年10月12日至昭和12年12月31日(防衛省防衛研究所)
歩兵第150連隊の陣中日誌の中に1937年12月29日付けで、「十二月二十九日 小雨……長警作命第三号 長興警備隊命令 於長興警備隊本部 十二月二十九日午後八時 一、師団ハ昨二十八日以降其行動ヲ開始シ新配備ニ就キツゝアリ 二、聯隊(騎兵一小隊野砲兵一中隊工兵一小隊師団通信隊無線一分隊衛生隊三分ノ一第三野戦病院ノ一部ヲ配属セラル)ハ爾今師団長直轄ノ許ニ長興警備隊トナリ一一四師作命甲第六七号ニ基ク新配備ニ就キ担任区域ヲ警備スルト共ニ敗残兵ノ掃蕩隠匿兵器及軍需資材ノ蒐集及戦場掃除、破壊行通路ノ回復並ニ確保(炭鉱鉄道ノ掩護ヲ含ム)ニ任シ併テ兵要地理調査ノ実施ヲナサントス 三、各警備中隊ハ本二十九日以降左ノ配備ニ就キ其ノ担任区域内ニ於テ前第二項ノ任務ニ服スベシ 但シ天平橋警備中隊ハ三十日長興ヲ出発同日中ニ配備ヲ完了スヘシ……歩兵第百五〇聯隊第六中隊(ⅡMG1/2配属)ハ大平橋警中隊トナリ大平橋(長興西南方約二十粁)ヲ警備」(PDF46~49ページ)とある。第114師団は南京陥落後、12月29日に湖州へ到着したとの記述のある史料については後ほど触れることにするが、同日、長興にも歩兵第150連隊が到着して早速上記の命令を出し、新たな長興警備隊が始動したということであろう。なお、上記「大平橋警中隊トナリ大平橋」(PDF49ページ)という部分には「大平橋」という地名が前後して二度出てくるが、一つ目の「大平橋」の「大」という文字の筆跡は「太」にも「天」にも見え、後から横棒や点が付け加えられているような感じもする。天平橋についても、後ほど改めて触れることにするが、実際のところ、長興県内やその周辺地域には「天平橋」「大平橋」「大平村」「太平橋村」といった似たような地名がある。当時の地図にも少し問題があって、「湖州武康長興附近兵要地誌概説 昭和13年1月調製 第114師団参謀部」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111986600、戦闘詳報其他綴 昭和12年~13年(防衛省防衛研究所))には、「昭和十三年一月調製 湖州武康長興附近兵要地誌概説 第百十四師団参謀部」という件名等の下、「昭和十二年ノ八月調製十万分ノ一地誌図ハ地貌ノ現出ハ概ネ正確ナルモ梯尺現地ト不一致ナリ……之ニ依リ修正スルニアラスハンハ地図ノ正確ハ期シ得ラサルヘシ」(PDF18ページ)とある。それゆえ、地理の把握について、まだ慣れない部分があったのだろう。
また、陣中日誌の中に1937年12月31日付けで、「十二月三十一日 雨天 於長興……長興警備命令 十二、三一 於長興警備司令部 一、後備歩兵大隊ハ下泗安ニ位置シ其ノ一部ハ大雲寺(長興西南方約七粁)ニ在リテ長興─広徳道ノ警備ニ任シアリ……三、天平橋警中隊ハ爾今林城橋警備中隊トナリ主力ヲ以テ林城橋(長興西南方約八粁)ヲ警備シ前任務ヲ続行スヘシ 特ニ大雲寺警備部隊ト密ニ連絡スルヲ要ス」(PDF56~57ページ)とある。ここに出てくる下泗安は現在の湖州市長興県泗安鎮の近辺、大雲寺は現在の湖州市長興県林城鎮大雲寺村であろう。林城橋については、後ほど触れることにする。1937年12月の長興近辺は、このような感じであった。
2-2.「状況報告 昭和13年1月17日 第114師団司令部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089500、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所)
「昭和十三年一月十七日 状況報告 第百十四師団司令部」という件名等の下、「一、軍紀、風紀、服務ノ状態 師団出動以来団下将兵ハ志気極メテ旺盛ニシテ其軍紀風紀ノ状態亦概ネ良好ナリ 将校以下服務ノ状態ハ概ネ良好ニシテ未熟ノ為成果ノ努力ニ伴ハサルモノ未タ其数比較的多キモ皆能ク真摯精励シアルヲ以テ時日ノ経過ニ伴ヒ漸次良好ノ域ニ達シ得ルモノト信ス 二、警備状況 1.一般ノ状況 警備担任地区内一般ノ状況ハ概ネ平静ナルモ夾浦鎮北方及湖州西南方ノ各山地内並皇皐鎮方面ニハ未タ敗残兵及土匪潜在シアリテ附近村落ニ出没シアルモノゝ如シ 2.警備配置 師団ハ警備担当地区内ヲ長興、湖州、武康、晟舎鎮ノ四警備地区ニ分チ各地区ニ夫々諸兵連合ノ部隊ヲ配置シテ其担当地区内ニ於ケル警備、残敵ノ掃蕩、治安維持ニ任セシムルト共ニ一部ノ兵力ヲ湖州ニ控置シテ師団ノ直轄トナシアリ 其配置別紙要図ノ如シ 3.掃蕩状況 本一月初以来各警備隊ハ各地区毎ニ掃蕩ヲ実施中ナルモ未タ殆ント敵兵ヲ認メス 然レトモ敵ハ容易ニ便衣トナリ兵匪ト土民トノ判別困難ナルニ鑑ミ師団ハ更ニ掃蕩ノ手段方法ニ工夫ヲ重ネ準備ヲ周到ニシ以テ掃蕩ノ効果ヲ徹底的ニ収ムルコトニ依リ地方ノ粛正ヲ期セントス 湖州東南方ノ大クリーク地帯並太湖沿岸地帯掃蕩ノ為ニハ相当数ノ舟艇ヲ要スルヲ以テ師団ハ舟艇ノ蒐集ニ努ムルト共ニ碇泊場司令部ノ協力ヲ得ントシアルモ未タ十分ニ其目的ヲ達スルニ至ラス 4.治安ノ状態 幹線道路沿道ノ住民ハ他ニ避難シアリシモ最近逐次帰村シツゝアリ 其他ノ部落民ハ避難スルコトナク生業ニ従事シ日本軍ニ対シテハ表面好意ヲ表シツゝアリ 今ヤ主要都市部落ニハ治安維持会設置セラレ之ヲ中心トシテ其周囲ノ村落ニ及ホシ日ヲ経ルニ従ヒ帰郷土民ヲ増加シツツアリ 一般ノ住民亦漸ク日本軍ヲ理解シ逐次我ヲ信頼スルノ風ヲ見得ルニ至レリ」(PDF3~5ページ)とある。ここに出てくる「諸兵連合ノ部隊ヲ配置」(PDF4ページ)という部分について、「附図 第114師団警備配置要図 1月15日に於ける」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089600、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所))には、各警備地区の範囲とともに軍隊記号にて兵力配置が示されている。例えば、湖州警備地区には「128iB(-150i)」等、長興警備地区には「150i」等、小渓口と同じ長興県南部に位置する林城橋にも「6±MG/150i」という軍隊記号が記されており、長興一帯には歩兵第128旅団歩兵第150連隊が配置されていたということが分かる。また、その南隣りに位置する武康警備地区には「127iB(-102i)」等、武康城には「Ⅱ/66i」等の軍隊記号が記されており、武康一帯には同じく第114師団旗下の歩兵第127旅団歩兵第66連隊が配置されていたということが分かる。また、ここには便衣に関する記述がある。誤って殺害される民間人もいたのであろうか。なお、ここに出てくる夾浦鎮は現在の湖州市長興県夾浦鎮、皇皐鎮という地名は不明、晟舎鎮は現在の湖州市呉興区織里鎮であろう。1938年1月の長興近辺は、このような感じであった。
2-3.「戦時旬報 第9号 昭和13年自1月20日至1月31日 第114師団司令部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111980700、戦時旬報綴 第1~26号 昭和12年11月1日~13年7月20日(防衛省防衛研究所)
「昭和十三年自一月二十日至一月三十一日 戦時旬報 第九号 第百十四師団司令部」という件名等の下、「一、彼我両軍状況ノ概要 当師団警備地区内ノ情勢 1.湖州警備隊ヨリノ情報 (イ)一月二十三日長興警備隊所属ノ一ヶ中隊ハ同日午前八時駐屯地出発林城橋西南方梅渓鎮附近掃蕩ノ際便衣ヲ着セル約百名ノ敵ト遭遇シ其約四十名ヲ斃シ之ニ殱滅的打撃ヲ与ヘタリ 我損害負傷五名……2.長興警備隊ヨリノ情報 (イ)一月二十三日午後二時頃水口鎮ニ便衣(支那長服)ヲ着スル敗残兵三十名現ハレ煤山方向ニ逃走セリ (ロ)林城橋附近情報 一月二十二日Ⅱ/150i長会田少佐ノ指揮スル第五、第七中隊ノ一小隊MG小隊ハ天平橋─送天橋─梅渓鎮附近ニ討伐ニ出動シ翌二十三日午前九時二十分頃梅渓鎮北方約一千米ノ水田一本道ヲ前進中後方山林及東方クリーク堤防上ヨリ突如約七十名(軽機一ヲ有ス)ノ十字火ヲ受ケ大隊ハ直チニ応戦敵ヲ東北方ニ潰走セシメタリ 敵ニ與ヘタル損害約四十名 我損害軽傷者五名 MG予備馬一頭 (ハ)一月二十二日正午過頃長興警備隊所属ノ天平橋警備中隊ハ掃蕩ノ為天平橋附近ニ出動中 其残留員ハ天平橋─梅渓鎮ノ中間地区極メテ騒然タルヲ知リ一部ノ斥候ヲ同方向ニ偵察ノ為メ派遣セリ 該斥候小口伍長以下四名ハ敵六十ニ遭遇シ之ヲ攻撃シタルモ敵ハ増兵シ来リ遂ニ包囲攻撃ヲ受ケタルニ至リ斥候四名ノ内 竹内一等兵戦死シ、小口伍長大島一等兵ノ二名ハ行衛不明、市川一等兵ハ重傷ヲ負ヘリ 中隊ハ掃蕩ヨリ帰還後右情況ヲ知リ直チニ一小隊ヲ派遣シ当大隊長ハ一ヶ中隊ヲ同地附近ニ派遣シ之ヲ掃蕩セリ 敵ハ約四十ノ死体ヲ残シ何レカニ逃走セリ 其ノ後引続キ二名ノ行衛不明ノ者ヲ捜索スルモ発見スルヲ得ス 目下諸方向ニ対シ一小隊以上ノ兵力ヲ出シ捜索ヲ続行中ナリ……(ヘ)通信班ヨリノ通報ニ依レバ長興─林城橋電話線ハ二回切断セラレタリト」(PDF3~4ページ)とある。ここにも便衣に関する記述がある。なお、ここに出てくる梅渓鎮というのは、雷震の地元小渓口の一部分が属する現在の湖州市安吉県梅渓鎮のことであろう。
上記のような状況に対して、「4.一月二十二日湖州警備隊ニ左記命令ヲ与ヘ掃蕩其他諸工作ヲ実施セシム 第百十四師団命令 一月二十二日 於湖州 一、湖州警備隊ハ長興、武康警備隊ノ各一部ヲ併セ指揮シ廟西西方地区ノ掃蕩ニ任スヘシ 二、長興、武康警備隊ハ二十四日以後右掃蕩間大隊長ノ指揮スル一部隊ヲ湖州警備隊司令官ノ指揮ニ入ラシム (イ)湖州警備隊ハ左ノ如ク掃蕩隊ヲ編成シ一月二十五日日没後夫々其主力ノ行動ヲ開始ス (一)林部隊(武康警備隊ノ歩兵三中隊、機関銃一小隊、師団無線一)ハ三橋埠出発一部ヲ以テ山河埠─「ペーツオン」道ヲ「ペーツオン」南方高地線ニ主力ヲ以テ小市鎮─和平道ヲ和平ニ向ヒ (二)大塚部隊(長興警備隊ヨリ兵力(イ)に同シ)ハ長興出発一部ヲ以テ同地ヨリ南進シテ「ツオンパイ」ニ主力ヲ以テ林城橋方向ヨリ小口渓ニ至ル陸路及水路ヲ小口渓ニ向ヒ (三)西村部隊(湖州警備隊ノ歩兵二中隊、機関銃一小隊、師団無線一)ハ湖州出発廟西─「ペーツオン」道ヲ「ペーツオン」ニ向ヒ (四)警備隊長ハ歩兵一中隊師団無線一分隊ヲ直轄シ西村討伐隊ノ近路ヲ廟西西側地区ニ向フ (ロ)各部隊ノ行動 各部隊ハ一月二十六日未明敵根拠地ヲ奇襲シ同地附近一帯ノ掃蕩ヲ実施シタル後翌二十七日夕迄ニ各警備地区ニ夫々帰還ス」(PDF5~6ページ)とある。上側ですでに触れた「附図 第114師団警備配置要図 1月15日に於ける」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111089600、第114師団状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所))の中に、廟西、ペーツオン、和平、天平橋、林城橋という地名が記載されており、その内の和平、天平橋、林城橋は位置関係から見れば、それぞれ現在の湖州市長興県和平鎮、湖州市長興県林城鎮天平村、湖州市長興県林城鎮であろう。和平から遠くない東南東方向にペーツオンが、ペーツオンから遠くない東南東方向に廟西が記されている。ただ、そうすると上側ですでに触れた「林城橋(長興西南方約八粁)」という部分は、距離があまり正確ではないように感じる。また、ここに出てくる「小口渓」という地名については、「小渓口」ではないのか?「小口渓」という地名がここで二度出てくるが、二つ目の「小口渓」は、「小渓」という二文字の間の右側に小さく四分の一以下の大きさで「口」という一文字が後から手で書き加えられているのが明白である。「小渓」といえば、当時も今も小渓村という地名が「小渓口」から南へ直線距離で15km程度離れた湖州市呉興区に存在しており、1937年の大日本帝國陸地測量部による「上海杭州近傍図 南京廣徳近傍図」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C16120492800、上海杭州南京廣徳近傍図(防衛省防衛研究所))(PDF14ページ)にもその記載があるが、この小渓村は山中であるので、水路で行くのは、かなり難しいと思われ、普通に考えて、この小渓村のことではないと思われる。この地図の中には、現在の「小渓口」あたりの位置に「小渓鎮」という地名の記載がある。また、林城鎮から「小渓口」の間には確かに水路というか、小さな川があって繋がっている。ゆえに、ここに出てくる「小口渓」というのは、やはり「小渓口」を指す可能性が高いように思われる。さらに指摘すると、ここに出てくる「(二)大塚部隊(長興警備隊ヨリ兵力(イ)に同シ)」(PDF6ページ)という部分は、意味から判断して「(イ)」ではなくて「(一)」であると思われる。この部分は、筆跡がやや不自然に感じられ、当初はアラビア数字で「(1)」と記載されていたのを後から縦棒に手で左払いを加えて「(イ)」にしてしまったような感じもする。「小口渓」と「小渓口」、「(イ)」と「(1)」の二つの問題からも、この史料は記載が少し雑であるように見受けられる。それはさておき、地名とそれらの位置関係を考えれば、小渓口近辺の地域に向けて周囲から包囲するような進軍が想定されていたのが見えてくるだろう。
続いて、上記の命令に対する「成果」についての記述がある。「(ハ)其ノ成果ノ概要左ノ如シ (一)西村部隊 安藤先遣隊ハ一月二十五午後四時過廟西西側高地ニ據リ軽機ヲ有スル敵約百名ト遭遇シ交戦二時間ノ後午後六時四十分之ヲ西南方ニ潰走セシム 敵ノ遺棄死体二 我ニ損害ナシ (二)林部隊 一月二十六日午前五時五十分小市鎮ニ於テ集合中ナリシ軽機一、小銃三ヲ有スル敵十名ヲ急襲シ殲滅シタル外掃蕩間残敵五名ヲ射殺ス 我ニ損害ナシ 鹵獲品、軽機(捷克式)一、「スタンダート・モーゼル」銃二、 (三)大塚部隊 一月二十六日未明泉渓附近ニ於テ三、四十ノ敵ヲ攻撃シ其大部ヲ殲滅セリ 敵ノ遺棄死体二十四 我ニ損害ナシ 本掃蕩ノ結果該地区附近ニハ呉興県抗日遊撃大隊(隊長部士龍、副官彭林政訓、主任王文林)兵力約三百(MG・LGヲ有ス)横行シアルコトヲ知リ得タリ 5.師団ハ引続キ警備治安維持ニ任シ転進ノ諸準備ニ遺憾無キヲ期シツツアリ」(PDF6~7ページ)とある。ここに出てくる転進の二文字は、華北への転出を指すのであろうか。これについては、後ほど改めて触れることにする。また、呉興県抗日遊撃大隊について検索してみると、確かに情報がヒットする。その存在を知った後、上層部に報告し、その後、第114師団の華北への転出に伴って新たに長興警備隊として配属された別の部隊に情報が引き継がれ、「1938年2月20日当日」に繋がったのだろうか。1938年1月の長興近辺は、このような感じであった。
2-4.「陣中日誌 自昭和13年2月1日至昭和13年2月28日 輜重兵第114連隊第1中隊(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111354300、輜重兵第114連隊第1中隊陣中日誌 4/14 昭和13年2月1日~13年2月28日(防衛省防衛研究所)
「湖州附近ニ於ケル 戦闘詳報 自昭和十三年二月十六日午後八時五十分至同日午後十一時〇分 輜重兵第百十四聯隊第一中隊」という件名等の下、「輜一一四作命第四九号 輜重兵第百十四聯隊命令 二月十九日午後四時 於上海本部 一、師団ハ去ル十六日ヨリ逐次船舶輸送ニヨリ先ス大連ニ向ヒ移動実施中ナリ 二、聯隊ハ明二十日ヨリ二十四日ニ至ル間ニ於テ呉淞及上海ヨリ乗船近く師団主力ヲ追及セントス」(PDF13ページ)とある。また、「輜重兵第百十四聯隊検疫実施計画表」には、各部隊の検疫日が2月18日から2月22日の間に順次定められている(PDF15ページ)。そして、「輜重兵第百十四聯隊行動計画表」には、各部隊の上海到着日、宿営地、検疫日、乗船地、乗船日等が記載されており、2月17日から2月21日の間に順次上海に到着して、乗船日は2月20日と2月23日に定められている(PDF16ページ)。続いて、実際に「二月二十日呉淞ニテ乗船」(PDF17ページ)という陣中日誌になっている。ゆえに、この部隊が「1938年2月20日当日」に小渓口で戦闘を実施するような余裕はなさそうな感じである。
2-5.「11 第114師団状況報告」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110933200、北支那方面軍状況報告綴 昭和12年10月25日~昭和14年6月25日(防衛省防衛研究所)」と「状況報告 第114師団」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111600600、状況報告 昭和13年1月17日~昭和13年12月17日(防衛省防衛研究所)
「状況報告 第百十四師団」という件名等の下、「師団ノ行動並配備ノ概要 一、師団ハ昨年十月十二日動員ヲ令セラレ二十一日之ヲ完結スルヤ直ニ其衛戍地ヲ出発シ大阪ニ集合ノ上十月三十日頃同地出帆五島列島ヲ経テ十一月五日杭州湾ニ到リ海上ニ待機スルコト約五日ノ後十日漸ク金山衛城附近ニ上陸セリ爾後新倉鎮附近ニ於テ敵ノ堅陣ヲ抜キ楓涇鎮、嘉興、平望鎮ヲ経テ湖州城ニ近迫シ国崎支隊ト協力シテ之ヲ攻略セリ爾来師団ハ軍ノ先頭ニ在リテ前進シ先ツ窑水橋ノ敵陣ヲ突破シテ夜間急追ヲ敢行シ敵ノ虚ヲ衝キテ長興ヲ陥レ更ニ北進シテ夾浦鎮北方ノ敵ノ堅砦ヲ屠リテ宜興、溧陽、溧水ノ諸城ヲ抜ケリ越テ秣陵関及将軍山附近ノ敵ノ堅陣ヲ撃砕シテ長駆南京城ニ迫リ力攻数日ノ後十二月十二日午後一時頃遂ニ雨花門附近南京城頭高ク日章旗ヲ翻スノ光栄ト感激ニ浴スルヲ得タリ 師団ハ命令ニ依リ反転東南進シテ十二月二十九日湖州ニ到リ同地附近警備ノ任ニ服シアリシカ大命ニ依リ二月十二日同地出発上海、大連、北京ヲ経テ二月末頃保定ニ到着シ同地附近ノ警備ニ任セリ」(それぞれPDF3~7、2~6ページ)とある。つまり、湖州近辺の警備を担当していたところを、華北への転出により、1938年2月12日にはすでに湖州を離れており、「1938年2月20日当日」には湖州にはいなかったということであろう。そういうことであれば、雷震の母親を殺害したのは、第114師団ではなかった可能性が高いように思われる。
以上、日本に留学経験があり、台湾の民主化に功績のあった雷震先生とそのご家族に対して旧日本軍が打撃を与えたということであれば大変残念な話である。今後も機会があれば、また調べてみようと思う。なお、上海から湖州への高速鉄道は現在すでに杭州経由で乗り換え不要の便が運行しており、今後は上海から湖州への直通ルートの高速鉄道も開通するようであり、ますます便利になる。将来また機会があれば、湖州、長興を訪れてみたいと思う。
昨年の雷震忌に作ってみた短歌はこちら。
短歌:雷震忌に
彼の地では
成し遂げられた
民主主義
嘗ての悪夢
今や灯台
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